私生活を楽しむ日記

フィギュアコレクションとお酒、読書、プチ旅行、家庭菜園を楽しんでます(^^♪

黒田 官兵衛!

今年の大河ドラマは黒田勘兵衛。戦国と幕末ファンの私にとって、今回のタイトルもとても嬉しいです。
今年の1年の私の励みの1つです(*゚▽゚*)

wikiより

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高は諱で、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

(人物像)
築城の名手として知られ、居住した中津城福岡城の他、前野長康浅野長政らと共に、姫路城、大坂城、讃岐高松城名護屋城肥前国)、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、縄張りや助言を行った。加藤清正は、自身の城は3〜4日で落ちるが、福岡城は30〜40日は落ちないなどと賞賛している。倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば黒田長政の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した。歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。徳川家康石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する。しかし、史実として確認できる業績からは、下克上や天下取りの野心を示した事は一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のである、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(事実上)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、なおかつ同じ東軍であったから、敵対すらしていない。遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」福岡県福岡市博多区に所在する崇福寺に伝来する肖像は慶長9年(1604年)の作で、播磨出身の井上之房(九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の春屋宗園による賛が記されている。